Story
『遊び』とロココ
フランス革命が起きる直前のフランス・ロココの時代は、歴史上最も遊びが盛んな時代だったと言われることがあります。
確かに、革命を起こすほどに民衆からの反発を買った当時の貴族たちの贅沢な生活ぶりは、外から見てさぞかし遊んでいたのだろうと納得させられるものがあります。
けれどもそういった外見上の派手さだけでなく、この時代は、社会のシステムそのものが『遊び』的ではないだろうかと思うのです。
革命前の時代を知る人々は、革命後の世の中を生きながら、時折このような言葉をもらしたといいます。
「楽園は失われた。
1789年(フランス革命が起こった年)より前の時代を知らない人間は、この世に生きた甲斐がない」
ここで言う「楽園」とは、おそらく贅沢な日々を過ごしていた革命前の貴族たちの理想郷のような生活を表しているわけですが、ではその楽園は、お金と地位を持った貴族たちなら無条件に与えられたものなのでしょうか?
それは違うと思います。
何故なら、確かに彼らは環境には恵まれていたと思いますが、その楽園で得られる快楽とは、楽園に住む人々が自分たちで快楽を作り出そうとするただならぬ意欲によって作り上げられていたように見えるからです。
宮廷に暮らす彼らには、何においても変えられないような信条を、大きく分けて2つ持っていました。
「演技の義務」と、「快楽をひたすら追い求めること」。
彼らは快楽をひたすら追い求める心を強く持ち続けることで、世の中の醜いものを全て美しいものに変形させたのです。
この頃の人々が作り出した、快楽だけを吸い上げるための社会的なシステムには驚くべきものがあります。
当時の衣服に込められた恋を楽しむための仕掛け、いつまでも恋の現役でいるために社会で結託して作られた身繕いの習慣、死にゆく人ですら人々の快楽を邪魔することのないように気を配ること、そしてその死の瞬間までエスプリを投げかけて、危篤に駆けつけてくれた人たちを最後の最後まで楽しませるということ。
そして、こういったことをきちんと演じ通すということ。
この時代の楽園は社会の中でほんの一部にしか存在しなかったものの、それでも楽園を現実のものにすることができたのは、こういった人々の、自分の存在や生命の全てを快楽に捧げる心意気や努力があってこそなのだと思います。
そしてこのように、快楽を追うためではあっても「自ら進んで従う厳格な決まりごと」、閉じられた世界の中で作られた、その世界の中でしか通用しないルールがあるということ、こういったものは、まさに*Singspiel*が注目する『遊び』と同じ性質のものです。
つまり、ロココの人々がこのような生活の信条を持っていたということ自体が、この時代の人々が常に遊んでいるように見える理由なのではないかと*Singspiel*は考えています。
『遊び』と秘密
楽しい『遊び』には「秘密」がつきものです。
「秘密」にはドキドキとワクワクがいっぱい詰まっています。
日常生活から切り離した、隠れ家のような異空間の楽しみ。
誰もが知るわけではない自分たちだけのための新しい世界を、まるでユートピアやドールハウスを作るかのように思いのまま創造する楽しみ。
そしてそれをお気に入りの仲間とだけ分かち合い共有する、連帯感の心地よさ。
例えば、国民に大きな犠牲を強いながら、自らの『遊び』のために莫大な浪費をしたということで悪名高い、マリー・アントワネットがプチ・トリアノン宮殿に作ったサロン。
ここではその女主人であるところのマリー・アントワネットが取り決めたルールは絶対に守らなければならず(例え国王であっても!)、決められた制服、決められた言葉遣いがあり、そしてプチ・トリアノンを訪れてそれを共有することができる人々は、彼女の取り決めた一握りの人々のみでした。
庭園を含むこの宮殿内には現実を模した作り物の世界が再現されており、マリー・アントワネットとその取り巻きたちは、堅苦しい別のルールにがんじがらめにされる現実の宮廷世界を抜け出して、この閉じられた秘密の空間の中で楽しい時を過ごしたといいます。
それから例えば、同じ時代で言うならば、出席者が全て仮面を纏い、別人格に「なる」ことがよしとされる仮面舞踏会もまた、いかにもわかりやすく「秘密」を利用した楽しみと言えるでしょう。
それどころか、一見したところでは遊んでいるようには見えない革命家や異端者、秘密結社などの集まりが、なぜあんなに熱狂するかという原因の一つにも、「秘密」があるとも思えます。
彼らはいかにも重大事に関わっているようでいて、それでも時折、仲間と秘密を共有する際に、どこか遊んでいるかのような興奮を見せることがあります。
例えばフランス革命では、革命家たちは同じ思想を分け合う者たちにこそ共感のできる共通の言語を作り、また後には「革命後の世界」を表現するための新たな言葉や立ち居振舞い、風俗を作り、その世界のルールに沿ったカレンダーまで作りました。
これらからは、当時の革命家たちがどれだけ自分達のしていることに対して熱狂していたかが伝わってきます。
彼らは同じ「秘密」(秘密は成長すると「世界観」になっていく)を共有することによって、相手を仲間と認めたり、連帯感を強めていったのです。
このように「秘密」とは時に人々を熱狂させるような魅惑的なものである上に、そもそも『遊び』の空間は日常生活から隔離され、独自の法則によって成り立つ自立した場であることが多いので、その閉鎖的な性質ゆえに「秘密」というものとの関わりがとても深いのです。
そして時に、「その世界の独自のルールを知っている」ということが「秘密」そのものにもなり、それを知ることによって同じ秘密の世界を共有できる仲間として入団を認められることもあるのです。
こういった『遊び』と「秘密」(そしてまた「世界観」)の興味深い関係に、*Singspiel*は注目しています。
『遊び』の生まれる場所
例えば「鬼ごっこ」や「だるまさんがころんだ」、音楽における「ドレミファソラシド」。
『遊び』が生まれる場所ではいつも、時間や空間などに日常生活から切り離された区画が作られ、その区画の中での独自なルールに従って世界が動きます。
そこにはいつもの日常生活とは違った法則で動く、別の宇宙のようなものが出現します。
その場と日常生活との境界線はとてもはっきりしていますが、それが物質的に目に見える形で場を区切る場合と、「こういうことにしましょうね」という、参加者たちによる暗黙の了解のようなもので区切ったことにされる場合とがあります。
またそれは意識的に区画されることもあるし、何となく当たり前のこととしてひとりでに場が成立することもあります。
そしてこのような視点で見ていくと、一見して真面目に見えるもの、例えば神殿や聖なる式典、宮廷社会のシステム、魔術の円陣、法廷などにも、形式や機能から言えば『遊び』の場であると言うこともできます。
もちろん、見た目にもいかにも遊びらしい、トランプ卓や劇場の舞台、闘技場などといったものも同じです。
つまりまとめると、
『遊び』の場とは、区画された空間・時間の中だけに有効な、固有な規則によって司られた特殊な一画であり、柵で囲われるように周囲からは隔離されているもの。
現実や日常の世界から切り離され、それだけで独立して存在し、その内部に世界の全てがあり、そこだけで完結する。
ある行為のために捧げられた聖なる世界、しかし一時的な世界のこと。
*Singspiel*では、こういった『遊び』の場を「世界観」と呼んでいます。
『遊び』とは何なのか?
『遊び』とは何なのか?
学者や人によっていろいろな考え方の違いがあるけれど、*Singspiel*ではこのような考え方をしています。
ーーーーーーーーー
『遊び』とは、あるはっきりと範囲の区切られた時間、空間の中で、自発的に好んで行われる活動や行為のこと。
その時間、空間には厳密な規則があり、参加者たちはそれらに自発的に従っていて、一度受け入れた以上は絶対に守らなければならないという強い拘束力がある。
『遊び』の目的は『遊び』という行為そのものの中にあり、日常生活とは全く「別のもの」という意識に裏付けられている。
『遊び』は緊張と歓びという感情を伴っている。
ーーーーーーーーー
このように、『遊び』は例え日常生活の中にあったとしても、日常生活そのものではありません。
それは『遊び』というものの性質の特徴として、もし日常生活の中に境界線を失くすような形で溶け込み、直接的な目的や有益性を持った時点で、『遊び』は『遊び』ではなくなり、「仕事」や「教育」のようなものに近づいていく、ということがあるからです。
『遊び』は、現実の、本当の「生」ではありません。
『遊び』はその行為の中で、それのみで既に完結しているもので、その行為の中でのみ満足を得ようとして行われます。
つまり『遊び』とは、現実の人生を左右することのない、毎日の生活の中の息抜きやレクリエーション、気軽で気分転換めいた間奏曲のようなもの。
好きな時に自由に行き来できる異空間のようなものなのです。
けれども、こういう『遊び』を繰り返しているうちに、『遊び』は常に日常生活を彩り飾るものとして日常に入り込んできたり、それが次第に生活の一部を構成したり補ったりするようなものになったり、それが嵩じて結果的に生活の機能として不可欠なものになってしまったりすることがあります。
そして始めはそれが個人の体験であったとしても、その『遊び』の体験の中で得られるものの感じ方、それが表す意味、価値などが社会のシステムとうまく結合して、結果的に文化として社会にとっても不可欠なものとなっていくことがあります。
このような『遊び』が、誰に教えられるともなく太古の昔から存在し今にも続いているということは、とても興味深く面白いものではないでしょうか?
*Singspiel*では、そういった『遊び』を大切にしたいと考えています。
*Singspiel*の考える『遊び』
子どもはよく遊ぶ。
いないいないばあで笑う赤ちゃんも遊ぶ。
兄弟でじゃれ合う子犬や子猫もまた遊んでいる。
つまり、どうやら、『遊び』というものは、文化を認識する以前の段階から知られているようです。
そして、例えば西洋中世の騎士道、古代で言えば政治とも言える祭祀、宮廷社会、運勢を占うためのタロットカード、音楽、ダンス、威厳を添えるために使用していた西洋貴族の男性のかつらなど、歴史的に追っても、『遊び』は人々の日常生活の中に存在してきました。
一見『遊び』には見えない真面目なことにも、『遊び』は息づいてきたのです。
さて、何のために*Singspiel*では『遊び』を支持するのでしょう?
何かそこに有益なものを見出そうとして、誠実に考えようとすればするほど、『遊び』は『遊び』でなくなっていきます。
それは、『遊び』はただ魅力的なものであり、理由や目的などないからです。
「真面目」や「仕事」の反対語などではなく、ただそこに存在しているだけの、無駄で贅沢なものだからです。
ただし、『遊び』とは、何もせずに怠けていれば勝手に生まれ出るものでもありません。
むしろ『遊び』は、『遊び』の世界の中で、真剣な気持ちで積極的に取り組まなければ自ずとその世界ごと消え失せてしまう、魔法のかけられた空間そのものなのです。
放っておけば何事にも有益さと意味を見出すことが良しとされるこの現代社会の中で、私たちはうっかりすると遊び方を思い出せなくなってしまっていることがあります。
そんな時に、ふと横を見れば『遊び』がある。
『遊び』を体感することができる。
私たちは、*Singspiel*がそんな場所になると良いな、と考えています。
👉ジングシュピールが考える『遊び』について、もっと見る